63歳 男、ジンクスには怖いものも在ります
私が子供の頃の話ですが未だにジンクスとして守っています。
私の父は人を使って建設業をしていました。
家には住み込みで10人程いてとても賑やかな毎日で、夕食の延長で宴会が始まるのです。
私はもう63歳になり妻と長女の3人で暮らしています。
父も他界して、建設の仕事は廃業し、住み込みの人達も田舎に帰っていきました。
時期は、1950から1975頃までの話です。
まだ携帯電話もカラオケボックスもない時代です、 歌も、民謡が主流で、使っている割りばしで茶わんを叩いて伴奏をしていました。
のある時代でした。
私の父は、迷信などとても煩い人でした。
「夜は爪を切るな」、「夜は口笛を吹くな」などと煩いくらい口にしていました。
中でも、子供心にびっくりした事が在りました。
今でもはっきり覚えています。
何時もの様に朝早くから朝食の時間で、テーブルと部屋が狭いために交代で食事をしていました。
そんな時、誰が言ったのか覚えていませんが、「サル」と言う言葉が耳に入りました。
当然父の耳にも入ったのでしょう。
するとえらい剣幕で今日は全員仕事を休みにするから、「仕事に行くな」、と朝から怒鳴り声がしました。
皆は訳が分からずきょとんとしていたのを思い出します。
暫くして、父が、職人は朝から「サル」と言う言葉は禁物だ、だれが言ったのか来なさいと言って居ました。
父の説明によると、職人は現場で高い処で仕事をするので、「サル」は「落ちる」と言う意味が在るのだそうです。
縁起の悪い言葉だそうです。
後もう一つ休みにする行動が在りました。
ご飯の一善飯です。
一善は仏様に挙げるご飯なので、必ず、二膳、少しでもいいので二膳目をよそる事だそうです。
商売柄色々な風習や言い伝えが在る物です。
でも言われてみれば成る程上手い事を言う物だと感心します。
此れ以来今でもこのジンクスは破る事が在りません、外に出て何か起きたら、と考えてしまいます。
「サル」では無く「おサルさん」と朝の場合は言うそうです。
一善飯も無理です。
こちらの方のジンクスは絶対です。
48歳 女 色々なジンクス
私は現在統合失調症という精神科の病気にかかっています。
薬を飲んでいるのですが、薬の副作用がひどく、悩んでいます。
どんな副作用かと言うと、目が上を向き、頭の中が混乱し、上しか見えない、大変きつい副作用で、とん服が有りまして、薬を飲むと、1時間から2時間ほどで治まります。
薬の無い時は3時間も4時間も続き、大変苦しい思いをしてきました。
ある日、看護師さんが「アイマスクをしてみたら?」と言うので、ドラッグストアで買い、電子レンジで温め、5分間アイマスクを付けてみました。
気分的な物も有るのですが、何となく調子が良い気がして、副作用は有りますが、期間が長くなったような気がして、1年半くらい毎日アイマスクを温めて使っています。
部屋では音楽を聴いていますので、音楽を聴きながら、リラックスして、過ごしています。
ちょっとしたジンクスです。
私は音楽も好きで、家の中ではいつも決まった音楽を聴いています。
それもジンクス的な感じで、まだ元気な頃は色んなアーティストの音楽を聴いていたのですが、その頃、好きなアーティストがいまして聴きたかったのですが、その音楽を聴くと副作用が出てしまい、聴けなくなってしまいました。
おかげで、家の用事が有る時は、毎日同じアーティストの曲を聴き、CDプレーヤーが壊れるまで聴き、今年になって3台もCDプレーヤーが壊れてしまいました。
でも、その音楽のおかげで落ち着いて家の用事が出来ているので、助かっています。
それもやっぱり、ジンクスの様な感じです。
音楽の雑誌を見るのが好きで本屋さんで立ち読みを良くしていたのですが、ある日、本屋さんの帰り道で副作用が出てしまい、それ以来、音楽の雑誌が読めなくなりました。
それもちょっとしたジンクスです。
副作用のせいで色んな行動が制限されてきましたがテレビが自由に観れなくなったのはかなりつらいジンクスです。
以前、テレビを観て、眠ろうとしたら、副作用が出てテレビも自由には観れなくなってしまいました。
私の生活はジンクスだらけです。
64歳男 暗黒面に救ってもらったフリーランス時代
隠居生活2年目、毎日が日曜日という生活をしています。
さすがに一年の長きに渡る休日は、目的もなく張り合いのない日々が続いています。
料理をすることを覚えました。
英語の勉強も始めました。
そして地域のボランティア的な活動にも参加をしていますが、現役時代の充実感を味わうことはもうできません。
グラフィックデザインであった私は30歳との時にある事件が元でフリーランスとして独立しました。
その事件とは当時勤務していたプロダクションの社長の理不尽さに腹が立ち、早朝会議の席で彼をスタッフの前で怒鳴りつけてしまいました。
私はそのまま会社を飛び出て、高ぶった気持ちを落ち着かせようと映画館に入りました。
その時に上映されていたスピルバーグ監督の「E.T」を観ているうちに、気分も静まり冷静になれたのです。
当時フリーランスのアートディレクターとして事務所を構えていた親しい元上司に電話をいれ事情を話しました。
彼は「まずは祝杯だ!俺んところ来い!」と言いました。
そして私のフリーランスの活動が始まりました。
当初は先輩の手伝いや、近所にあった制作プロダクションの助っ人だとかで仕事をもらっていましたが、少しではありましたが自分自身で開拓したクライアントも増えていき、自宅の近所のワンルームマンションに事務所を構えました。
最初の2ヶ月は暇でしたが、徐々に仕事が入ってきます。
PC普及以前のデザイン作業は正に手作業の世界です。
時間が物凄くかかるのです。
しかも一人ですから、資料を探すのも客との打ち合わせも全部私がやらなければならない。
コピーを取るのも自分の作業です。
狭い事務所に布団を持ち込んで月の半分は泊りがけという状態です。
そんな状況ですから常に思い通りの仕事ができないのです。
仕事が重なると納得できないまま提出しなければならないこともままありました。
もちろん怒られたり、突っ返されたり、また遅刻したりと散々です。
ある日気がつきました。
デザインの出来が悪い時に心の中では「なんとかなるよ!」という気持ちがありました。
出来のいい時で評判上々の時は「ハラハラドキドキ」と不安でいっぱいだと気付いたのです。
苦手な広告代理店の担当者の仕事の出来が悪く、しかし時間がなく仕方なく電車に乗りました。
気分は平然としていました。
「なんとかなるよ!」と頭の中にその声が響きます。
まずいと思いました。
ワザと不安を自分の中に作ってみました。
「怖い怖い、怒られる怒られる」と。
すると胸の内が不安でザワザワするのです。
そのまま担当の席に向かいました。
彼は外出から戻っていませんでした。
私は原稿を皮下の方に委託し帰宅しました。
以後この手法を重宝しました。
デザインの出来は変わりませんが、担当が不在、時間の変更、先方の都合による仕切り直し、など救われました。
私は恐怖と不安を使ったダークサイドのフォースとしてこのジンクスを信じていました。